手塚治虫追悼文から

宮崎は手塚治虫氏が死去した時、とある雑誌に追悼文を寄稿しています。

その文章は、

 《(前略)アニメーションに関しては--これだけはぼくが言う権利と幾ばくかの義務があると思うので

 言いますが--これまで手塚さんが喋ってきたこととか主張したことというのは、みんな間違いです。(後略)》

上記は全文の1割もないでしょうが、批判しているのは明らかです。

宮崎が手塚を批判するのは構わない。

私は手塚治虫氏の作品の一部を読んでいますが、ファンや信者という程ではありません。

 

私が気に入らないのは、手塚の死後に追悼文として、そしてそれを誌面で発表したことです。

批判があるのなら生前に直接言えば良いんです。何故、死んだ後に言うのでしょう。

ただし、もしかしたら生前に直接言っているかもしれません。

と、なれば尚更、死後に再び言う必要はありません。

例えば決着のついた格闘技の試合で、勝者が祝福を受ける中、

這いつくばる敗者に対し蹴りを入れるのに似ている気がします。

そんな選手はみっともないでしょう。死んだ者を批判するなど卑怯な行為だと思います。

 

商業誌に発表したことも気に入りません。手塚治虫氏のことをどうのこうの思っているなら

そもそも執筆を断ればいいのです。「手塚先生にはいい想いがありません」と

ハッキリ言えばいいんです。

何故、不特定多数が目にする商業誌でヌケヌケと発表するのでしょうか。

 

宮崎のアニメーション技術は素晴らしいのだそうですね。

もし、そんな自分の力を誇示したいのなら、それはゴリラのマウンティングと同じです。

非常に大人気なく、また、非常に尻の穴が小さいというか、器量・度量の狭い人に思えます。

 

宮崎はこのころ既に、名実共に日本一のアニメ監督であったといいます。

宮崎に少しでもトップとしての自覚があるならば、決して批判などしてはいけないのです。

仮に、言う権利と幾ばくかの義務があったとしても・・・(権利はあっても義務などはないと思います。)

・・・日本一のアニメ監督として堪えるべきです。

第一人者としての義務を感じるなら、自身の感じる手塚の負の遺産を改善するために

周りに対して動けば良いのです。表立って批判する必要など全くもってありません。

そしてそれを達成した時、心の中で叫ぶなりなじるなりすれば良いのです。

「手塚!オレはお前を越えた!」と。

そうであれば仮に未達成であっても、周りが評価するでしょう。

 

宮崎の手塚への批判を、「手塚への歪んだ愛情」と見る向きもあるそうです。

ちゃんちゃら可笑しくて、へそが茶を沸かしそうです。反吐が出そうです。

そんなもの認められません。

まるで好きな女の子に意地悪してしまう子どもではないですか。

いい齢したじじぃが愛情表現を歪ませてどうするのですか。対人感情が未熟なのでしょうか?

それともこれも人気取り、話題づくりでしょうか??

だとすれば、人を貶めて傷つけるような戦略こそ認められる物ではありません。

 

だから尚更腹立たしいのは

「こういう物の見方をせず、宮崎の作品を盲目的に至上の物として持て囃す風潮」です。

 

宮崎、やはり認めたくありません。

 

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